文化不毛とまで言われた地方都市で、親子,師弟が2代に渡って遂に築いた本物のサウンドづくりの軌跡=実証必読論文
12歳の少女は、母の弾くあまりにも美しいクラシックギターの音に魅せられました。 母が習う師・田原昭義先生は、日本ギター界の草分け的存在、その立派な先生は、ある日、新堀メソードと出会い非常に感動しすぐ採用しました。そしてそれまでほとんどの伝統ギター教室で定番であったカルカッシメソードと訣別しました。当時のギター界に発表した“落ちた偶像カルカッジ”の論文は大きなセンセイションを巻き起こし、以来、ハ長調→ト長調→二長調と#の数で進むこのレッスン法は影をひそめ、「現代ギター教則本」(新堀寛己著)の“音楽の内容の難易”で進む(高中低音各種ギターを用いる)ニイボリメソードへと全国の教室が改革される歴史的切掛けをつくりました。田原先生は、年下の私(新堀)にレッスンを受ける為に、片道10時間をかけ、泊まり込みで上京し気迫溢れる日々を送っていました。 “これからの日本は学校内にギターが正しく道入されなければならない”と当時(昭和30年代)提唱していた私の考えを真っ先に行動に移し、地方辺地の学校まで限なく足を運び、Nメソードを語り続け、新堀ギターアンサンブル(NE)によるスクールコンサートを実施し、10万人を超える学生に素晴らしい音楽を提供していました。一般公演も10年間休む事なくNEを招聘し続け、送に市長をコンサートホール建設までに決意させるに至りました。 少女・由香理さんは目を見張る成長をし、やがてN校を卒業しNE メンバーにも選ばれ、海外公演のチャンスも得る直前、最愛の母が47歳で急逝、続いて尊敬する田原先生も53歳で他界してしまいました。足立由香理さんはもう一度、第一歩からスタートをする事を決意したのです。以後の発展の一端は切々と語る実証論文で伺えます。あまりにも辛い困難を、あの爽やかなスマイルと夢と意志とNメソードで次々と乗り越え、そして今、素晴らしい花が咲かんとしています。2代をかけた目を見張る地方発展史を、ここに誇りを持って伝える事が出来る事は誠に幸せに思います。 新堀寬己
2000年 ホノルル大学 国際芸術学学士論文 足立由香理
師弟、親子二代に渡る地方都市「福知山」のギター音楽発展史
この音は何の音かしら・・。今から30年前の深夜、家の中に響き渡る音。家にはピアノしかないし、一体この音は…・と、母の部屋をのぞくと、ギターを楽しげに弾く母の姿。母は、私がそっと見ているという事も気づかずに弾いていました。あの曲は、今から思えば「金鳳花ワルツ」だった様な気がします。軽やかなリズムと、何と澄んだメロディー!これを一人で弾きこなしている母をうらやましく思いました。当時、私は12才、小学6年生の時でした。3才から始めたピアノと声楽は、毎日の様に「練習しなさい」と母から言われ、ピアノの先生からも「練習しないと一流になれませんから」ときつく言われていました。練習、練習と言われれば言われる程、イヤになってくるのが子供心、もうやめたくて仕方なかった頃でした。 そんな時に出会ったこの光景に、「なんてギターは楽しそうな楽器なのだろう」と思いました。また「ギターが上手くなればピアノもやめさせてもらえるかもしれない.」そんな単純な発想で触れてみたギターに、いつの間にか夢中になってしまいました。
田原昭義先生との出会い
毎週日曜日、いつも決まった時間になったら嬉しそうに出かける母。「毎週どこに行ってるの?」と聞くと、「ギターよ、ついて来る?」との返答。早速、母について近くの楽噐店へと行きました。2階へ上がると、もう何人か生徒さんが練習中で、その中に母も入り、いつの間にかアンサンブルに。そらしている内に田原先生が上がって来られ、レッスン開始。私には先生というと、ピアノの個人レッスン中心のイメージしかなく、レッスン=叱られるといら感じだったのですが、田原先生のレッスンは全く違いました。生徒さん6〜7人でしたが、先生と共に、音階練習、アルペジオから始まり「カーノの課題曲」へ。こんないい曲があるんだと、感心して見ていました。そして「アンニーローリー」のメロディーときれいなアルペジオの伴奏。私は、もう早く弾きたくて、レッスンが終わるのが待ち遠しく思いました。 田原昭義先生は、昭和39年、全国でも一早く新堀メソードを導入し、個人レッスンからグループ式個人レッスンへと最新のレッスン方法を取り入れられました。また、合奏用ギター導入した「田原ギター合奏団」も結成。常に新しい情報を取り入れ、どうすれば良い指導ができるかと、日夜考え実践されていました。 初めて言葉を交わした時におっしゃったのは「これからは、ギターの時代が来ます。 「心の糧になる良い音楽を全ての人々〜!これを伝えるのが私の仕事です」。そして、「たのしいギター入門」「新しいギターメソード」「現代ギター教則本」等々、見せていただきながら、これからのギター界の展望を熱く語られていたのが印象的でした。これが、生涯を通じて師となる人と、新堀メソードとの出会いになりました。
感動いっぱいのスクールコンサート
中学生になったある日、学校の音楽鑑賞会で新堀ギター女性合奏団「ザ・ドリマーズ」 (現・東京新堀ギターアンサンブルの前身)が、来られる事を知り、心待ちでした。一枚のレコード「夢見る人」を何回も聴き、このレコードを録音した人達と出会える、生の演奏が聴ける、と指折り数えていました。 いざその日、教室からイスを持って体育館へ集合。いつもなら体育の授業やクラブ活動で使っている体育館ですが、こうしてイスに座ってみると、あちこち窓ガラスも割れ、腰板もはがれかかっているのもあり、こんなひどい体育館で演奏してもらうなんて-と、今でも当時の状況は覚えています。それ位、印象的とういうより、衝撃的なスクールコンサートになってしまいました。 昭和43年頃、京都府福知山市の人口は約5万人弱。北近畿の交通の要所、旧国鉄の鉄道管理局があり、商業の町として発展していました。一時は「文化不毛の地」とも言われた程、地方文化の遅れを感じる町でした。「文化不毛の地」これを何とかしなくては…・が 田原先生の口癖で、「それには大勢の人に、まず本物のギターの生演奏を聴いてもらわないと「百聞は一見に如かず』だ」と、大勢の人にスクールコンサートの必要性を語っていました。 今では当たり前のスクールコンサートですが、当時、何もルートのない所から始められた田原先生は、何度も学校へ足を運び、担当の先生との交渉しました。この頃はグループサウンズの全盛期で、「ギターをやっているのは不良?」と言われた頃でもあったので、スムーズには成立しなかった様に聞いています。しかし「よい音楽を聴いて欲しい」 「心の糧になる良い音楽を」の信念を持って誠心誠意お話しされた事が、この地方を全国一のスクールコンサートの開催地にしました。そして幸運な事に、私が運っている中学校が、その第一歩、最初のスクールコンサートだったのです。 「皆さん、こんにちは。ザ・ドリマーズです。このグループのテーマソング、フォスタ一作曲、夢見る人をお聞きください」と、明るくはっきりした声でお話しされる指揮者の新堀寬己先生。いよいよスクールコンサートの開始。いつも騒がしい学生達も、一糸乱れずタクトに呼吸を合わせながら演奏しているメンバー(8人)に釘付けとなり、700人余の生徒がいるとは思えない程、静かに聞いていました。 私にとっても初めての生演奏で、「いつもテキストやレコードしか見たり聞いたりしかした事のないのに本物なんだ」と、一音も聞き逃さない様にと真剣に聞き入っていました。従来なら、演奏会とは「眠くなるもの」「つまらないもの」と言われた事もありましたが、あっという間の90分でした。ある音楽の先生は、「演奏会に話(解説)を入れるなんて邪道」と授業の中で話されていましたが、この言葉を撤回されたのは言うまでもありません。 良い音楽とわかりやすい解説で、このスクールコンサートは昭和43年より53年迄、福知山市周辺,兵庫県北部,和田山町,但東町,山東町,豊岡市から城崎,香住周辺,宮津に至る殆ど小・中・高校で開催され、10年間で約10万人以上が鑑賞した記録があります。学校の先生同士で「良かったから」との噂が広まり、最初の1年は大変だったものの2年目からは、学校の方からの依頼も沢山あった様です。やがてメンバーも「ザ・ドリマーズ」から、ドリマーズ+一流ソリスト達(男性)が加わり、「東京新堀ギターアンサンブル」へとなり、レパートリーもクラッシックをメインに、フラメンコ、歌,リコーダー等々も入り、聴いていても見ていてもとても楽しいものと発展していきました。 現在、「学生時代に聞いた記憶がある」と言われて、私の教室に入学される方がいます。 又、その二世と、新堀ギターアンサンブルのスクールコンサートの余韻は、人々の心の片隅で何年経っても忘れる事なく残っているようです。 師、田原先生の努力で、10年間連続で実現したスクールコンサートと、10万人以上の人達が鑑賞した記録は、これから先も破られる事のない記録として残されていくと思います。
“心の糧になる良い音楽を全ての人々へ”
田原先生は、この言葉をモットーに、教室を開設されてから20余年、20周年記念の行事も済み、各教室へのレッスンの忙しい最中、日本教育ギター連盟(NKG)の理事会に出席するため東京へ行かれました。帰福されてから「東京駅の階段が、しんどくて上がれなかった」と、おっしゃいました。今までそんな弱音は言われた事がない先生でした。 この時既に病魔は先生を蝕んでいたのです。 それからは病魔との戦いが始まりました。レッスンの合間をぬって週1回の腎臟透析、そして病状は段々と悪化し、入退院の繰り返しになられ、昭和59年5月、53才で帰らぬ人となられました。全盛期には、講師の先生二人とで200人近くの生徒さんがありましたが、私が引き継いだ時には数名でした。
私がギター専門家を志した理由
母が習っていたのがきっかけで、小学6年生から始めたギター。1年間は新堀メソードの教本「たのしいギター入門」「新しいギターメソード1」で、グループ式個人レッスンを受けていました。6〜7人で独奏も楽しみ、アンサンブルも楽しみました。年齢的に私が一番年下でしたが、大人の人の中に入り、皆さんにかわいがってもらいました。中でもキュフナーの三重奏に想い出が強くあります。
新堀寛己先生との出会い
習い始めてから一年が過ぎた頃、学校のクラブ、塾等で時間が合わなくなり、田原先生の自宅で個人レッスンを受けるようになっていました。「現代ギター教則本」(現在は新・現代ギター教本)の中等科を終え高等科へ入った中学三年生の時、日本教育ギター連盟のギター検定三級を受ける事になりました。曲目は、カルカッシの0p.60-20です。合格すれば、当時全国で最年少の合格者になるという事でした。運よく、新堀先生が、演奏会の為にこちらの方へに来られており、審査して頂く事になりました。新堀先生を目の前にしての演奏は、もう心臓が飛び出る程ドキドキしましたが、結果は合格でした。 その時の新堀先生の心温まる講評は、今でも忘れられません。私は、音ミスや指が早く動かない等、技術面が気になる時で、何回ミスをしてしまったかばかりを気にしていました。しかし新堀先生はミスの事等、一言もおっしゃられず、「感動を生む良い演奏とは?」「心を動かすにはどんな練習をしたらよいか?」の2点についてアドバイスされました。私は、「新堀先生は、何と心の広い先生だろう。熱血漢の田原先生と共に一生ついて行けば、良い音楽家になれるだろう」と、密かにプロになる事を意識し始めていました。その時、新堀先生から一言、「高校を卒業したら日本ギター音楽学校に来ませんかしと~。
日本ギター音楽学校(現・国際新堀芸術学院 大学課程へ)
私は二人の素晴らしい先生に恵まれました。「本当にやる気があるならば、井の中の蛀にならない様に、新堀先生の所にレッスンにいきなさい」と田原先生から勧めて頂き、新堀先生からも「遠くて大変でしょうが、レッスンは見てあげますよ」と声をかけて頂き、高校在学中から、当時の新堀先生の自宅(東京・西荻窪)まで、2ヵ月に1回のペースで通いました。下の応接室で待っていると、音楽学校の先輩方の練習が見られたり、学校生活のお話しを聞かせてもらったりしました。ですから、日本ギター音楽学校に入学した時には、すでに殆どの先と顔見知りになっていました。この様にある程度の予備知識はあったものの、入学してみると、さすがプロの卵の集団!ライバル意識は凄まじい で、プロになるための試練かと、考えさせられました。定演の出演者に選ばれれば憧れの東京上野文化会館で演奏出来る!まずはこれを目標にと頑張った1年生でした。
東京新堀ギターアンサンブル(NE)へ入団
憧れのNE(東京新堀ギターアンサンブル)。小さい頃から夢を見、入団して一緒に演奏をしたいと願っていました。学校生活2年目の夏、その日は突然に訪れました。「新堀ギター音楽院20周年記念・1万5千人の集い」(於:日本武道館)が無事終了し一息ついた翌日、NEのコンサートマスターから、「入団おめでとう。これだけ今度の練習迄に弾ける様に。次の北海道の地方公演がデビューです」との言葉。「嬉しい」というより「困ったな」の方が先に立ち、「いったい何曲あるのだろう」と、片手では持ちきれない楽譜を見つめていました。NEの北海道公演は10日後に迫って来ているし、考えている暇はないと、練習にかかりました。 NEでの経験は、この紙面では語り尽くせない程あります。練習が厳しくて何度も泣きました。練習で泣いて演奏会で笑えと、その表現の難しさも経験しました。又、マネージャーから、歩き方、おじぎの仕方、お化粧の仕方、そして地方公演での主催者への挨拶や会話の仕方、楽器の積み込み,セッティング等々、演奏会のやり方を全て勉強しました。このグループに入ると、演奏も出来、又豊かな人間性がないとやっていけない事がよく理解できました。憧れだけでは決してやっていけないプロ根性を徹底的にたたき込まれましたが、現在こうして演奏活動,教室活動とこなせていけるのは、この苦労があればこそ頑張れるんだと思い、自信を持って活動しています。
人生の転機、故郷へ帰る
学校や東京の生活にも慣れ、NEの演奏活動も新人ながらこなせる様になり、順調に行っていました。ドリマーズの英国公演に続き、NEもスペイン公演が決定し、パスポートも取得。演奏,準備もOKで、あとは出発を待つだけとなったある日、父から電話がかかってきました。父は、最初はプロになる事を反対していましたが、私が一生懸命やっている姿を見て陰ながら応援してくれる様になっていました。電話の内容は「電話では話せないから明日、上京する」という事でした。 翌日、父は上京し、久しぶりに再会しました。NEに入っていると帰省なんて考えた事もなかったので、何年かぶりでした。なかなかロを開かない父に、「どうしたの」と尋ねると「母がガンでもう余命は数ヵ月・・・」。父は平静を保っている様でしたが、辛くてなかなか言い出せなかったのでしょう。私も目の前が真っ暗になり、どう返事をすればいいかわかりませんでした。父は「すぐ福知山へ帰り、母がやっている家業を継ぎ、看病に専念してほしい」と告げました。 スペイン公演は間近だし、母の事も気になるし、悩みました。スペイン公演をキャンセルしたら、どれだけ皆に迷惑をかけるか、自分の立場がどうなるか、ギターをやめる事になるのではないか…。「あなたの活躍が生きがいなのよ」と一番の理解者の母が数ヵ月の命…、家業の旅館業はどうするの...考えればきりがありません。田原先生にも何度も電話をし相談しました。「小さい頃から夢見たNEを群めて帰るなんていや、一生の仕事としてやるんだわ」と、わがままも言いましたが、結局、田原先生が「責任は全て俺がとる。帰って来い。帰って来て福知山でギターをやればいい」。この言葉で帰る決心をしました。この数ヵ月後、母は47才の若さで他界し、1年後、田原先生は発病し、5年後53才で他界されました。
田原ギター音楽院を引き継いで
福知山へ帰ってからは、母の看病、家業と全く踏み込んだ事のない世界。今までギターだけ弾いていればよかったのに、田舎でもあるし、近所付き合いもままならぬ有様でした。しかし、日曜日になると、田原先生の所へ行き、子供たちのレッスンをするのが唯一の息抜きになりました。10人程集めてジュニアアンサンブルを結成。「ドレミの歌」「エーデルワイス」等、大きな声で歌ったり、リコーダーを吹いたり。4才の子もいれば高校生の子もいる。高校生のお姉さんは小学生の子に一生懸命「かえるのうた」を教え、宿題を持ってきてお兄さんに教えてもらっている子もいる。「さあ、“ドレミの歌”やりますよ、用意してね」と声をかけると、遊んでいた子も自分のパートにつき、指揮者の私の顔を見る瞳はキラキラと輝いていました。この子供達も今は、お父さん、お母さんになり、今も続けている人も居ります。 こうして楽しくレッスンをしていたのも束の間で、田原先生の病状が悪化。私も縁があり、この土地の人と結婚,出産で、一番恩返しをしなくてはいけない時期に何もお手伝いできませんでした。今でも申し訳なかったと思っています。田原ギター音楽院もしばらく休校しなければならない状況となってきました。でも田原先生は体調の良い時に、どうしてもと言われる人だけレッスンされていました。田原ギター合奏団は、休団となりました。 そして突然の訃報。私も二人目の出産が間近、どうすればいいのだろう。田原先生の奥様,ご子息と私の3人で後の事を話し合いました。ご子息はサラリーマンで、音楽院を継ぐ意志がなく、「全て引き継いで、もう一度ギター王国を築いて欲しいと」と奥様から提案され、私が音楽院の看板や備品等、全て譲り受ける事になりました。こんなに早く引き継ぐなんて…、田原先生に色々と教えて頂いてからと思っていただけに、どうしていいのやら…、これからは全て私にかかってくる、と自覚を新たに決意をしました。 新堀先生からも「“田原新堀ギター音楽院”と新堀ブランド教室としてやっては」との温かいアドバイスもありましたが、やはり田原先生が築かれた土地でもあり、又私には二枚の看板はどうしても荷が重く、しばらくは「田原ギター音楽院」でやる事にしました。 長男出産後、半年で教室再開。昭和59年12月、生徒は5名。子育てをしながらのレッスン。「私が続けられるだろうか」それが一番心配でしたが、生徒さんに助けられ、半年後には5人で生徒発表会をやりました。風の便りか私がギター教室を再開した事を聞き、復学された生徒さん、新しい生徒さんと、段々にぎやかになっていきました。 昭和63(88)年には6年ぶりに田原ギター合奏団復活し、田原ギター音楽院ファミリーコンサートを開催。福知山にギターサウンドが戻ってきました。
田原ギター音楽院から「あだちゆかりギター教室」へ
ギターの灯だけは消すまいと引き継いでから、諸先輩,生徒さん、合奏団の方々に支えられ無我夢中でやってきた数年間でしたが、平成4(92)年、田原ギター音楽院創立30周年を迎える事ができました。30周年の呼びかけで、音楽院合奏団OBの方々が、これを機会にと再びギターを手にして下さり、記念発表会には、懐かしい顔ぶれがステージに揃いました。そして11月には、30周年記念コンサートとして、久しぶりに新堀覚己先生指揮・東京新堀ギターアンサンブルを招き、思い出の福知山市民会館で、変わらぬサウンドを聞かせて頂きました。 田原先生が亡くなられてから8年目、時代の流れ、皆さんの理解もあり、この30周年の伝統の重みを感じながら、新堀メソードによる「あだちゆかりギター教室」と改名する事になりました。
現在、そして21世紀へ向けて
平成12年現在、福知山・舞鶴教室、近隣市町村の教育委員会主催・生涯教育講座3ヵ所、京都・神戸でのカルチャーセンター、宮津暁星女子高校・非常勤講師等の教育活動を行なっています。 また演奏にも未練があり、自宅で童謡中心のホームコンサートをしたり、ギャラリーやサロンで弾いています。 高齢化社会になりつつある現代、50歳を過ぎてからギターを始められる方も多くなってきました。特に地方では独居老人、老夫婦の二人暮らしが多いだけに、何か楽しみをと、ご夫で習いに来られる方、「弾くのは無理だけど、聞かせて下さい」と尋ねて来られる等、「心の糧になる良い音楽を」が求められています。 新堀メソードを母体に発展していった田原ギター合奏団は、平成8年に福知山ギター合奏団と改名し、創立当初からのコンサートマスターの足立博さんや田原先生時代からのお子さんが半数以上も在席し、師弟二代に渡る役目を果たしてもらっています。 又、私は今年度(2000年度)から、「日本ギタリスト会議」主催の「ギター音楽大賞」の審査員も務めさせて頂く事になりました。この審査員は田原先生も以前、務められていました。 こうして一人歩きを始めたものの、田原先生の功續は偉大なもので、地盤があったからこそ、ここ迄私なりにやって来られたと思います。 さて、21世紀へ向けて、私は、世界の平和を望み、音楽の生活化、音楽からの街づくりをテーマに、少しでも地方文化の向上にお役に立てれるよう努力していくと共に、今 度は三代目となる素晴らしい後継者を育てていきたいと思っています。 平成12年9月20日 足立由香理